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ITW Enjoh Toh VO
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ITW Enjoh Toh VO

Actusf : どうしてSFを書くようになりましたか?
Enjoh Toh : 私は、SFの専門誌や、文芸誌に原稿を書いていますが、自然に書くとSFと呼ばれるものになってしまうのです。違うものを書く方が難しい。
どのような作品をSFと呼ぶのかという問題があります。SFとは、科学的なフィクション(scientific fiction)なのか、科学のフィクション(fiction of science)なのか、フィクショナルな科学(fictional science)なのか、フィクションの科学(science of fiction)なのか。
Michel Houellebecq の作品はSFなのか、Oulipoの活動はSFなのか、Richard Powers の作品はSFなのか、Abe Koboの作品はSFなのか。
もちろん、science fiction という語は、それらの全てを含む、とても便利な言葉です。
明治以降の日本では、小説を、「純文学」か「大衆文学」という奇妙なcategoryに分類することが多いのですが、SFをそのどちらに入れるべきなのかは、人によって意見が違います。
良く言えば、SFの柔軟性、悪く言えば、ただ無視されているだけというのがその原因です。
しかし現状で、小説の中に全く科学を登場させないことは、ほぼ不可能です。小説に登場する科学的な対象が、一般に広く知られている範囲をこえた場合、多分その小説はSFと呼ばれるでしょう。DNAや微分積分、写像(map, function)や現代の暗号技術は、すでに私たちの生活に深く入り込んでいるわけですが、「純文学」の小道具としてはまだまだ新しいもの、正体のわからないもの、低俗なもの、と見られ続けているからです。
奇妙なcategory を、今すぐに壊すことを望めない現在、SFという、どちらにも分類されていない不思議な分野にいることは、行動の自由をもたらします。便利なのです。

Actusf : SFとファンタジーで重要だと思われる作品のタイトルを挙げてください。
Enjoh Toh : Jacques Roubaud の “La Bella Hortense”
Steve Erickson の ”Tours of the Black Clock”
Richard Powers の ”Three Farmers on Their Way to a Dance”
Mircea Eliade の “Pe strada Mântuleasa”
Stanisław Lem の “Imaginary Magnitude”
William Gibson の “Hinterland”
Charles Stross の “Accelerando”
Ted Chang の “Story of Your Life and Others”
あたりでしょうか。
日本からも一つだけ。
神林長平(Kanbayashi Chohei) の 「戦闘妖精雪風」

Actusf : 一番好きな作家は誰ですか?一番好きなSF作品は?SF以外の作品は?
Enjoh Toh : ジョン・ヴァーリィ(John Varley)です。彼は多分、日本において、一般的に有名ではありません。現代的だとも考えられてはいないでしょう。しかしとても重要な作家だと思います。重要、と呼ぶにも少し困る作風ですが。
ですので、一番好きなSF作品は、”Steel Beach” です。とても個人的な趣味ですが。
SF以外だと、そうですね。
先程SFの項目にあげましたが、Jacques Roubaud の “La Bella Hortense”を。今年になってようやく、日本語で読めるようになったのです。日本ではただの馬鹿話、法螺話と見なされていますが、それだけにとどまらない作品であることは明らかです。
Jacques Derrida を読むことができると同時に、Bernard Derrida のことも読めるべきだし、小説はそのように書かれるべきだと思います。

Actusf : 作家になったきっかけは?
Enjoh Toh : お金に困ったからです。こう言うと、とても奇妙に聞こえるかも知れません。日本では未だにお金に困って作家になるという選択が存在するのか、と驚かれるのではないでしょうか。実際のところ、お金に困って作家になるという選択は、日本でも、もう存在していません。
私の場合は、特殊な状況にありました。
私は、大学で物理学を専攻していたのですが、博士号を取得してから、postdoctor を7年ほど続けていました。それだけの時間をかけて成果を上げられなかった以上、大学を去るべきである、と、私は判断したわけです。
大学を辞めるのは良いとして、それでは自分に何ができるのか。書くことの他には何もできることがなかった、というだけのことです。
現在、日本の大学はひどい状態にあり、基礎科学を維持できるか難しいところまで来てしまいました。作家という職業は、現代の日本では成り立たないわけですが、大学での研究の方が、より、成り立たない。とても悪いものよりは良い、という消極的な選択の結果なのです。

Actusf : 自分の作品の中で、どれが一番好きですか?自分の作品の特性(テーマ・モチーフなど)とは何でしょうか?
Enjoh Toh : “Boy’s Surface”です。結局のところ、”Boy’s Surface”の内容は、私の博士論文の内容なのです。従って、一番長く考えてきた、馴染み深いテーマだということになります。
特性は、自己参照的(self-referencial) な構造と独我論(solipsism)ということになるでしょう。私には同じことに思えるのですが、それは、形式と内容の一致を考えるということでもあります。ある形式を採用することで何かを書くことが可能となり、何かを書こうとするならば、形式を選択しなければならない。その間の関係が、一番興味のあるものです。両者は一緒に生成されるはずのものだと思います。
意識の問題と言うこともできるし、何を書くことができるのかという問題でもあります。
そういう意味では、私は、書かれている内容でSFを“実行”しようとしているわけではないとも言えます。形式自体が動き出すことのできるようなもの、が、あるのではないかと考えているのだと思います。勝手に動く小説、というのはSF的な対象なわけです。
何が書いてあるのか良くわからない、と、言われることが多いのですが、SFを“実行”している部分が異なる、ということになるのだと思います。

Actusf : これからの計画は?
Enjoh Toh : とりあえず、何かを書いていないと、生活が成り立たないので、何でも書いていこうと思っています。形式と内容の関係を考える、という戦略をとる以上、少なくとも形式を把握すれば、何でも書けるはずなのです。もちろん、形式を把握しきる、ということは不可能なわけですが。
乗り越えなければいけないのは、長編を書けるようになることと、独我論的、ひとりよがりから抜け出すことでしょう。この二つは、戦略上、生じる問題です。あまり長い話の形式を考えることは困難ですし、何かの形式を意識的に採用するということは、結局、作者の選択の外側へ出られないことを意味しています。

Actusf : 日本ではSFを読む人が多いでしょうか?SFとファンタジーの作家は多いでしょうか?
Enjoh Toh : 日本では、90年代、SFがあまり売れなくなった時期があったと言われています。私は個人的に、単に、有能な書き手が新しく出なかったというだけのことではないかと思うのですが。SFとして小説を売ることができなくなった人たちは、ミステリーやホラー、「純文学」や、ライトノベルの領域で、それぞれにSF的なモチーフを利用して作品を書き続けていました。
その意味では、SFの書き手は広く様々なジャンルへ拡散し、それなりの量の本を読む人は知らないうちにSFを読んでいるという状況が生まれたわけです。
いわゆるジャンルSFの読者は5000人というあたりではないかと思います。それでもこれは、「海外文学」を日常的に読んでいるといわれる3000人よりは多い数字です。
作家の数については、よくわかりませんが、自分の作家的基礎として、子供時代に読んだSF作品をあげる人々が、ジャンルを問わず30代を中心に増えてきている気がします。

Actusf : 英語圏のSFの影響は大きいですか?翻訳の重要さはどうでしょう?
Enjoh Toh : とても大きい、と言わざるをえません。
日本の高度成長期に流行したSFの書き手を、日本SFの第一世代と呼ぶならば、日本のSFは、第二世代への接続に失敗したのです。
そこには様々な要因があるわけですが、ニューウェーブなどのように、SFの対象が拡大したこと、科学技術の捉え方が急速に変化したことが主要な要因だと思います。
「それはSFではない」という議論が生じるわけです。
この議論は当然、英語圏のSFでも起こったことですが、翻訳を経ることで、それらの新しい作品はSFとして輸入されます。そこでようやく、日本SFの範囲が広がることになったわけです。科学についても同じことが言えるのですが。
本来は、もっと以前から日本独自のSFや科学が発展する道があったはずなのですが、外部からの権威づけを待たなければ、それらはSFや科学と呼ばれることさえなかったのです。
もちろんこれは、単純化しすぎた話なのですが、Greg Egan や Ted Chang のような作家を日本から出せなかった理由の説明にはなると思います。

Actusf : 日本SFでは、文学として、どのような問題・テーマを取り上げますか?
Enjoh Toh : これもまた単純化になりますが、日本の伝統的なSFは科学技術SFでした。日本に限らない話だと思いますが。宇宙開発ものや、人類の明るい未来型の小説は、これに入ります。
他方で、SFという枠組みを用いて、意識や社会構造を扱う作品も、当然、存在していました。文学という枠組みで語るなら、後者の作品になると思われます。
このところよく見かけるのは、自由意志や意識とは何か、質的に変化した社会をどう捉え直すか、というものです。あるいは、行き着く先がDystopiaしかありえなくなった現在の世界をどこまで押し進めることができるのかという思考実験などです。
SFの全体が、Social Fiction 、ただし科学を抜きには把握できなくなった人間や社会を直接的に描くという方向へ進みつつあるような気がします。
しかしこれは、日本に限った話ではなく、どこの国のSFでも扱われている問題であり、テーマです。
ですから、日本の独自性ということになると、例によって、「器用な」変奏、というのが日本の特質ということになりそうです。
長年、行って来た習慣を変えることはやはり、困難なわけです。
2007年に、日本で世界SF大会(worldcon)が行われたとき、感じたのは、日本のSF作家の方が、「自分を機械や物理過程(physical process)と思いたい」という欲望を強く持っているのではないか、ということでした。機械として理解したい、というのとは少し違います。むしろ機械や形式でありたいのです。ただしこれは限られたサンプルでの話なので、一般化はできないと思います。

Actusf : ライトのベルという現象はどう思いますか?
Enjoh Toh : まず注意が必要なのは、日本では、ライトノベルと呼ばれるジャンルが成立してから、少なくとも20年が過ぎているということです。私は現在37歳ですが、ライトノベルというジャンルの成立と共に育ってきたと言って良いわけです。ですから、ライトノベルというジャンルが存在することについて、何の違和感も感じていません。私自身も、ライトノベルを書けという依頼を受けています。
ライトノベルというジャンルは、Young Adult というジャンルとも違う、とても奇妙なものです。馬鹿にして読まない人も多いですが、実際のところ、最も多くの実験が行われているのはライトノベルの分野だと思います。そこでは、多くの言葉遊びや、過去の作品への過剰な参照が行われ、一般的には日本語とみなされないような文章も書かれています。
唐突なことを言うようですが、人間の寿命は確実に長くなっているのです。
小学生が「良い本」を読み、中学生や高校生が、ライトノベル読み、成人が文学を読む、というような時間の使い分けが実際に可能になっているわけです。
ライトノベルは、中学生や高校生の認知過程(cognitive process)に適した形式(format)なのでは、と考えています。その善悪は当然、別の問題ですが。読みにくいものや、今の自分では読めないものを読むのが読書であるというのも事実ですから。
2番の項目であげた、注目するべき作品の選択に見えるように、私は秩序だったジャンルの形成にほとんど興味がないのです。
めちゃくちゃなことを続けることで、何か新しいものが出て来るかもしれない、というのが、私がライトノベルに感じる期待です。
女の子がそんなにパンツを見せなくとも良いのではないかと思うこともよくありますが、La Bella Hortense を読んで少し考えが変わりました。

Actusf : フランスでは、日本のSF作品がアニメと漫画を通して知られていますが、日本では、アニメ・漫画・小説の相互の影響は重要ですか?
Enjoh Toh : ビジネスモデルとして重要です。
というのは、半ば冗談ではないわけですが、作品の直接的なアニメ化や漫画化を除くとしても、相互の影響は顕著です。
実際のところ、今、一番文学的なことをしているのは、漫画なのではないかと思うことも良くあります。
小説、アニメ、漫画、映画は、明らかに形式が異なるものです。それらの形式を統一的に融合する、という試みに私はあまり興味を持っていません。それぞれの形式でしか行えないことがあると信じているからですが。
それぞれの形式を尊重した上で、それらの間には、内容だけにとどまらない相互の影響関係があると思います。それが何かはよく分からないのですが。
結局、何かをつくるためには、できる限りのものを吸収するしかないわけです。当然、そこで、アニメを見、漫画を読むよりは古典文学を読むべきだという考え方はあります。極端な言い方になりますが、それは「純文学」を書く人に任せてしまっても良い。
小説、アニメ、漫画、映画は、今の日本においては、一緒に吸収し、相互に参照のしやすい、一つのpackageをなしているように感じます。これは歴史的に形成されてきた、一つの体系です。知的体系と言えるかどうかは難しいですが、少なくとも私たちは、それらと一緒に、既に育ってしまっているのです。維持するにせよ、破壊しようとするにせよ、一つの土台をなしているのではないでしょうか。
相互の影響が重要だったかどうかは、これからどんな作品が産み出されていくどうか次第だと思います。私は、カオス(chaos)の側に賭けているのです。

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